Masukそれから領地内の孤児院や修道院にも足を運んだが、殺人犯の実の娘であることやあと二年で成人という点で門前払いを受けた。
しかし、いつまでも泣いて落ち込み続けても、暮らしていけない。 少しずつこの領地の隣人たちの信頼を取り戻そうと、ヨハンの提案によって始めたのが養鶏業だった。 餌を撒き終え、鶏の群れの中でぽつりと立つイルゼは口を手で押さえて欠伸をしていた。そんな様子に見かねたのだろう。 「イルゼはねぼすけだな。まだ眠いのか?」 笑いながらヨハンに言われて、イルゼは首を横に振るい「大丈夫」と、またもそれから領地内の孤児院や修道院にも足を運んだが、殺人犯の実の娘であることやあと二年で成人という点で門前払いを受けた。 しかし、いつまでも泣いて落ち込み続けても、暮らしていけない。 少しずつこの領地の隣人たちの信頼を取り戻そうと、ヨハンの提案によって始めたのが養鶏業だった。 餌を撒き終え、鶏の群れの中でぽつりと立つイルゼは口を手で押さえて欠伸をしていた。そんな様子に見かねたのだろう。 「イルゼはねぼすけだな。まだ眠いのか?」 笑いながらヨハンに言われて、イルゼは首を横に振るい「大丈夫」と、またも抑揚の乏しい口調で答える。 愛想の欠片もない返答だが、これがイルゼの普通だ。 義兄は特にそれを気に留めず、穏やかな笑みを向けた。 イルゼは言葉が非常に平坦で感情が乏しく喜怒哀楽がろくに表情に出ない。 ──大きな瞳に愛らしい小さな鼻。腰につくほどに長く艶やかな金の髪。と、見た目こそ可憐だが、その表情は死んでいて、無感情な人形のようだった。 余計にそう見せるのは、瞳の色が一因しているだろう。 川底のような深く冷ややかな青緑色なので、どこか淀みをたたえているように映ってしまう。 そんなイルゼに対して義兄のヨハンときたら、顔立ちの精悍である癖に物腰が柔らかい性質の持ち主だった。 性格も非常に明るいことから街で評判の高い男である。 もはや、ヨハンのお陰でこの家業が円滑に回っていると言っても過言でない。非の打ち所の無い義兄だとはイルゼも思っていた。 しかし、なぜにここまで自分を構い気に掛けるのか。母を殺した男の娘だというのに……。 だが、これに対して「イルゼには何の罪もないだろう」の一点張りで、そう思う他なかった。 しかし、非の打ち所の無いとはいえ、苦労はしている所為か。ヨハンは非常に眠りが浅いらしい。 養鶏業を始めてからというものの、夜も眠れぬ不眠に悩まされているようで、街の診療所に度々訪れ、睡眠薬を処方してもらっているとのことだ。 片や、自分と来たら朝にめっぽう弱く、寝ようと思えば何時だって寝てしまえるほど。夕食を終えれば眠くなり、湯浴みを済ませてさっさと床に入る毎日だ。本当に、この睡眠欲を義兄に分けてあげたいほどだと思えて
喧しく憂鬱の朝が今日も始まった。 イルゼは気怠い身体を引き摺るようにベッドから起き上がる。 随分と年期を重ねたボロボロのクローゼットを開くと、埃とカビでも混ぜたような不快な臭いがする。クローゼットの中はガラガラだ。 吊されているものは、ヴァレンウルム王国の民族衣装──ディアンドルが五着ほど。 しかし二着は酷くボロ。穴の開いた部分を端切れで縫い合わせており、非常にみっともない。残り二着に関しては状態も良く綺麗だが、丈が少し長くて寸法が合わないもので……。 イルゼは顔をしかめつつ、綺麗なディアンドルを一着取り出してもそもそと着換えを始めた。 そうして着換えを済ませると、彼女はボロ屋敷を出て、屋敷の裏手にある鶏舎へと向かう。 そこには既に、焦げ茶髪の男の姿があった。 今日はきっと自分の方が早いだろうにと思ったが、本当にどれだけ早起きか。否、ろくに眠っていないのかもしれないが……。 イルゼは少し困った顔で彼の後ろ姿を見て間もなく。視線に勘付いたのか、彼は振り返ってやんわりと笑む。 「イルゼおはよう」「……おはよ。義兄さん」 抑揚の乏しい口調で挨拶し、イルゼはバケツに穀物の滓をたんまり入れて鶏舎の中に入って行った。 ──イルゼの母親が死者とされて数年後。父親は再婚した。 父は歳の割にはそこそこ外見も良く、外面だけは良かった。 酒に溺れているようには見せず、働くフリなんかお手の物。母が居なくなってからというものの、父は非常に狡賢くどうしようもない人間に成長した。 表向きには優しく穏やかな顔を装っていたが、その中身は虫喰いのがらんどう。完全に腐食していた。 そんな愚かな父と再婚した継母には二人の連れ子がおり、イルゼには三つ年上の義兄と一つ年上の義姉ができた。 その一人が彼……ヨハンだ。 義姉に関しては、今はこのボロ屋敷におらず、現在ここで暮らすのはイルゼと義兄のヨハン二人きり。 その頃、イルゼの母は捜索も打ち切られ、死亡と見なされた行方不明者。父は死別者という扱いだった。 ヨハンの母も、配偶者を病で亡くし、死別者。 ──死別同士の再婚。親戚も街の人間も、新たな門出を素直に祝福した。 だが、そこにはイルゼの父、トビアス・ジルヒャーの陰湿な企
──紺碧の夜空に、白銀の星々。 川のせせらぎの響く夜の崖から望む景色は、大好きだった母とその歌声を自然と思い出す。 母が消え去ったあの日から、イルゼは不安になるたびにこの崖に足を運んでいた。 『もし、歌を歌ってるのを誰かに見られたらどうするの?』 夜にこんな場所で歌を歌っていたら、きっと変な人だと思われちゃう。 そんなふうに訊けば、母は微笑み── 『〝私は、ローレライ〟って名乗るのはどう?』 なんて、悪戯気に笑った。 ローレライとは、この切り立った崖そのものを現すが、同時に、歌声で船乗りを惑わすセイレーンの一種と言われている。 謂わば、歌声を武器とする、女の怪物だ。 そんな母の喩えは、何だか少し滑稽で、イルゼはほんのりと微笑んだ。 しかし、ここは森の中の切り立った崖の上。人なんて来るはずもないと思ったが──母が消えた翌年の夏。嵐が過ぎた夏の夜、黒髪の男の子がやって来たのだ。 容姿からするに、イルゼより少し年上と思しい。 髪は脂気を失ってぱさぱさとしており、体躯は細く、まるで骨と皮。その所為で目元がやけに際立っていた。 その瞳は、優しげな垂れ目だった。 印象深いのは、淡い色彩の瞳。 月明かりの下でははっきりしないが、この国の人々の目色からすれば、アイスブルーだろうと想像できた。 イルゼの住まうツヴァルク領は、王国の外れ。とても辺鄙な場所にある。この領地はとても狭く、住人も少ない。 そうとなれば、歳の近い子どもの顔は、大抵覚えているが……イルゼはその男の子にまったく見覚えがなかった。 酷い折檻でも受けたのだろう。彼のボロボロの衣類から覗く四肢は痣だらけ。 その様から、彼がここへ来た理由は穏やかな理由でないと、幼いながらでも、簡単に想像ができた。 ──きっと、この断崖絶壁から濁流に身を投げようとしているのだろう。 そう悟って、イルゼが歌を止め彼に詰め寄ると、立ち止まっていた彼はガタガタと歯を鳴らして怯えきった相好でイルゼを見る。 「君、誰……! 何してるの! 今、真夜中だよ! ねぇ、君はオバケなの?」 彼は今にも泣き出しそうな声で訊く。 そんな反応さ
まるで厚い硝子をひとつ隔てて音を聞いているかのよう。大嫌いな女の耳障りな悲鳴は、彼女の耳にどこか遠く、底冷えする水底から響くように届いていた。 それは視界も同じだった。 すべてが色彩を失い、ぐらりと歪み、四隅が血の色に滲んでいく。空気は重く、肺に絡みつくような粘り気を帯び、息をするたびに鉄の匂いが鼻腔を刺した。 地面に散った家畜の餌──湿った麦と豆が土に混じり、踏みつけられてねばつく。そこへ鶏たちが、羽をばたつかせながら騒ぎ立てる。羽音と鳴き声が脳裏に反響し、鼓膜を震わせた。 そして、罵倒と悲鳴を同時に吐き散らしながら逃げ惑う、下品なほど派手な装いの女。黒地の衣服が泥にまみれ、裾を引き裂かれながら這う滑稽な姿が、視界の端で蠢く。 ──あぁ、目障りだ。大嫌いだ。こんな女のために私は。 どうして私ばかりが我慢し、嫌な思いをし、胸の奥を抉られるような苦しみを味わい続けなければならないのだ。どうして、こんな立場に追いやられねばならないのだ。〝私自身〟が何をしたというのだ。 どうして、どうして、どうして! これまでに、これほどの強い怨嗟と殺意を抱いたことがあっただろうか。 肉切り包丁を握る手が、汗で滑る。刃は鈍く光り、指の関節が白くなるほど力を込めた。 彼女──イルゼ・ジルヒャーは、川底のように暗く澱んだ双眸で、逃げ惑う女を捉えて離さない。瞳の奥に、復讐の黒い炎が揺らめいている。 取り返しのつかない行為をしているのは分かっている。けれど、自分でも、この激情はもう止められなかった。 喉の奥がひどく熱く、唾液が鉄の味を帯びていた。心臓がひどく荒く脈打ち、耳の奥で耳鳴りが鳴り響く。 日々の罵倒。度を超えた意地悪の数々。そして今日は、唯一の誇りである大切な髪を、根元から無造作に切り落とされた。 そのすべては、何年も昔、父が殺人を犯したという理由で。 この女──義姉の母親を、父が殺してしまったという理由で。 ──蛙の子は蛙。 あの父親と同じ血が流れていること自体、吐き気を催し、胃の底がねじれるような嫌悪で胸が締め付けられる。けれど、もう、この激情は止められそうにない。 許せない。許せないから殺して